すっとんきょうでゴメンナサイ

風の吹くまま気の向くまま

普通のお父さんがいい

 
連休に実家に戻って来た。
 
私の場合、この「里帰り」
ほとんど毎回
久しぶりの再会に喜び、楽しく賑やかに親子の時間を過ごしていたはずが
日にちが経ち滞在も終わりに近づくと、どういうわけだか些細なことでもめ始め
後味の悪い感を胸に抱えながらの別れとなる。
情けない・・。
 
今回もそうで、
帰りの新幹線の中
流れる景色をぼんやりと眺めながら
どうしたってまともには思えない父の言い分
どうしたってまともには思えない父の言い方
どうしてああなんだろうと考えた。
 
普通でいいのに。
普通のお父さんがいい。
子どもの頃から何度も思ったっけな。
 
・・・・・
 
あれ?「普通」?
 
でも、「普通」ってどんなだろう?
「一般的」?「常識的」?
 
でも、「一般的」ってどんな感じ?
一番多いパターンのこと?
でも・・
一番多いパターンだからそれが絶体的に良いっていうのは、ちょっと違うな
 
「常識的」って
誰が決めたものを「常識」と呼ぶんだろう?
全ての人が「その通りです!」とひれ伏すような「常識」って
誰がどう決めるんだろう?
万能の神・・?
 
いや、神様だっていろいろおられていろいろおっしゃるもんだから
争いが絶えないわけだし
 
そんなことが頭の中を巡る巡る。
 
・・・・・
 
そう言えば、子どもの頃
母は「常識的」で「普通」の人に見えた。
でも今や、母は「普通」の枠に収まらない特異な人で
母の「常識」は母独特の発想や感性からくるものに他ならないことが明白になった。
母が変わったわけではない。
思い起こせばそういう人だった。
ただ、私はまだ幼くて
違う「普通」や他の「常識」を知らなかったから
母を通してのそれらを「普通」や「常識」と認識したのだった。
 
だからなのだ。
母と真逆の「常識」や「普通」を体現する父は
家族の中で「非常識」な部分の多い「変わり者」に映っていた。
 
けれど真実は、父も又
多くの人が持つ「常識」にとらわれる「普通」の人だったのかもしれない。
今、父をよくよく見ているとそう思える。
 
・・・・・
 
「普通」とか「常識」とか「一般的」とか
それが何なのか明らかにして言い切ること
自分には難しくて出来ないなぁ・・。
自分にとっての「普通」の形はある。
自分なりに「常識」だってあるつもりだけど
それが他の人にとってどうなのかは全然わからない。
わからないからっておどおど生きていても仕方ないので
自分なりにありのままにやるだけなんだけど
自分にも変わっているところ、非常識なところ、他から受け入れ難いところ
あるんだってことは忘れちゃいかんと思っている。
そして、自分のことを棚に上げて
「非常識だ!」とか「普通じゃない!」とか
闇雲に人を批判したり否定したりしちゃいかんと思うわけだ。
 
むむむ、ということは・・
 
 
父よ、
わたしも悪うござんした。