こまくさ便り~Your Smile

娘、妻、嫁、母、ばあば、そして「私」の日々を綴ります

孤独のカタチ

 
あまりにも穏やかな春の日。
花粉症がひどくなるのは怖いけどお陽様に誘われて自転車で出かけた。
 
20年以上前、この地に引越してきた我が家の周りは昔からの農村地帯の面影が色濃く残っていた。
時は流れ、今や、新しい家やアパートが次々に建ったとはいえまだまだのんびりと静かである。
家の前の公園の桜は五分咲きといったところだろうか。
この陽気に開花もぐっと進むだろうから今週末は毎年恒例のオヤジ達のお花見で盛り上がるはず。
越してきた当時から健在の、畑の中の一本道をキコキコ進むと両側に菜の花。
お陽様の光を反射するかのように黄色が目に眩しい。
心地良い暖かさに包まれて何ともいえない幸福感で満たされる。
 
公園ではたくさんの親子連れが集っていた。
そうそう、ワタシもあんなだったなぁ。
あんなふうに毎日子ども達を公園に連れて行った。
笑ったり、泣いたり、叫んだり、怒ったり、そりゃもう賑やかだった。
モノの取り合いはしょっちゅうでその度にママ達は我が子に言って聞かせるのだ。
「勝手にとっちゃダメよ。か~し~てって言うの」
そして、勝手にとられた子どもは真意を確認されることもなく
「ほら、い~い~よって貸してあげなさい」とママに通告される。
なんだか納得いかないけど「い~い~よ」と差し出したあの時の小さい人たち。
今振り返って、なんてオトナな小さい人たちだったのだろうと思う。
時には、(イヤだ!貸したくない。だってボクの宝物なんだよ)と思うこともあったろうに。
とは言え、ワタシも子ども達にそう仕向けていたのだけど。
 
なーんてことをぷかぷか心に浮かべながら。。
 
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。。

 
孤独のカタチは一人一人違う。
多くの人は、そのカタチをぴたっと埋めてくれる誰かに出逢えない。
それどころか理解者にさえ恵まれない。
でも、全てわかってもらえずとも、自分の孤独のカタチに寄り添う誰か、
「たった1人」いればやっていける
――― 山田ズーニーさん
 
 
時に、胸の辺りで冷たい風がすうっと通り抜ける感覚がある。
本当の自分をわかってもらえていないことの孤独が不意に押し寄せることがある。
そして、此処ではない何処かに行きたくなる。
何処かに行けば、自分の孤独を理解してくれる誰かが存在するかもと思うのだ。
今、自分が十分に幸せであることを分かっているのに、である。
 
何故だろうと思っていた。
今の幸せは自分の孤独を埋め、癒してはくれないのだろうか。
此処では駄目なのだろうかと思ったりした。
 
しかし、
この言葉に出逢って、ああ、そういうことなのかもと腑に落ちた。
 
孤独のカタチは一人一人違うものであること。
だから、
ジグソーパズルのように自分の孤独のカタチにぴたっとハマる人には
そもそも滅多にお目にかかれないものであること。
それどころか、理解者にさえ恵まれないこともあるのだということ。
 
ああ、そういうものなのかと思えば
何故と自問してきた己の孤独も在って然るべきと
なんだか肩の荷が下りると言うか、ホッとする気分である。
 
そして、
己の孤独を全て分かり、埋めてもらおうと考えるのは少々傲慢。
こんな自分にいつも変わらず寄り添ってくれる誰かの存在に感謝。
 
それに、
ワタシの孤独のカタチは 「自由」と裏返し。
「自由」でありたければ
「孤独」も受け止めなければイケナイのだ。
 
たくろうも言っているじゃないの。
自由になると 淋しいのかい って。
 
そんなことも心に浮かびながら
帰ってきた昼下がりだった。。