すっとんきょうでゴメンナサイ

風の吹くまま気の向くまま

ひとりの人間だった


おとうさんやおかあさんが、どういうことを思ったり、考えたりしていたか。
こどもは、じぶんが大人になったときに知りたくなる。

糸井重里さんの今日のエッセイの書き出しに引き寄せられた。

大人になったこどもは、あるときに、
おとうさんもおかあさんも、ひとりの人間だったということについて、
いまさらのように気がつくからだ。
おとうさん、おかあさん、と呼んでいた人が、
じぶんのような人間だったとしたら、
どんなふうに生きていたのだろうかと興味を持つ。


特別に積極的な興味は持たなかったけど
大人になってから
父と母もひとりの人間だと、今さらのように気がつく瞬間は確かにあったなぁ。

子どもだった頃、父は父でしかなく、母も母でしかなかった。
さらに、
父はかなり変わっていて一般的なお父さんらしくない父だったし
母はすこぶる常識的で子どものことに熱心な母だった。

と思っていた。
それが紛れもない父と母の姿だった。

しかし、大人になり、父母のもとから離れ
大人の目で客観的に眺めていると
いやいや、そうではないな
それだけではないな、と気がついた。
変わり者の烙印を押された父の、the日本人としての普通の感覚
常識的を自負している母の、時に周りを唖然とさせる言動。
キレやすいと思っていた父は繊細で情の深い人だった。
完璧主義で上昇志向の強い母はそうでない人を理解出来ず、時にクールだった。
幼い頃から見知っていた父と母の有りようとは異なる二人の姿に
その度、そうだったのかと。

それでも、違和感は無かった。
父ではなく母ではなく、ひとりの人間として当たり前に長所短所があり
弱いところも駄目なところも隠しきれない。
そんな二人がより身近に感じられ
そう思える自分自身も少し大人になった気がした。


こんな機械をつくる仕事をしていたんだよだとか、
こういう人に、こういうサービスをしていたんだよだとか、
うれしいときにはこんな歌をよく歌っただとか、
隠していた恋心があってねだとか、
こんなことをずうっと気に病んでいたんだよだとか、
全然だめだめなことでもいいし、
けっこうりっぱだったことでもいいし、
弱いところがいっぱいあったという事実でもいい。

そういうおとうさんやおかあさんのさまざまな足跡を見て、
こどもはまた大人になる。


父母が若かりし頃の、仕事、恋愛、悩み。
見合い結婚で始まった貧乏所帯も楽しかった新婚生活。
そんな話を聞きながらまた
父も母もひとりの人間として生きてきたんだなあと
自分も何とか生きていけるかなあと
心の何処かが励まされるのだった。