すっとんきょうでゴメンナサイ

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「いつも君の味方」さだまさし

 
 
図書館でふとさだまさしさんの本に目が留まった。
「いつも君の味方」
2003年9月第一刷発行とあるのでまあまあ昔に書かれたもの。
 
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ぺらりとページをめくると“まえがき”
タイトルに いつも僕の味方だった、妖精の子孫達へ とある。
そして、書き出しはこうだった。
 
「日本には妖精が住んでいるのではないか。さもなければ日本人は妖精の子孫ではないだろうか」と言ったのは小泉八雲ラフカディオ・ハーンだった。
 
その洒落た文章に途端に興味を惹かれ借りることにした。
あくまでもまだ“まえがき”である。
ハーンがそう言ったのは日本人による精緻な工芸品や美術品と出会った時の感嘆の声だったろうし、
「ちいさきもの」への愛から描かれたあまりにも好意的で美しすぎる「ハーンの日本」が僕は好き。
歌を歌いながら日本中を旅し、人に出会って生きてくると、確かにこの国には妖精の子孫が暮らしていると思うことがある、とさださんは書いている。
 
気まぐれな妖精の子孫達は、向こうで不意に近づいてきて、向こうで不意に遠ざかる。こちらから近づこうと思っても届かないことが多いし、あきらめた頃にふと、隣に座っていたりすることがある。またずっとそばにいて欲しいと願っても叶わないかと思うと、中には腐れ縁などという失礼な言葉の向こう側でいつまでも笑顔を送ってくれることもある。人と人のつながりとはまことにそういうものだ。
 
人は、自分の人生の上で大切な人と出会っても、残念ながら出会った瞬間にそれに気づくことはまれである。その人の重さに気づくのは、多くはその人を失った時なのである。もしも今自分は大切な人と出会っている、と気づくことができたら、僕らの人生はもっと楽しいものになるのだろうか、もっとつまらないものになるのだろうか。あるいはまたこの妙こそが、人生そのものなのだろうか。
人は来たり人は去る。
 
 
“まえがき”を長々と引用してしまったが、まさにテーマが凝縮されていると思うので。
そして本編には、さださんが出会ったそうした「妖精の子孫達」の中でも、
特に味方になり本当に愛してくれた人達とのエピソードが綴られている。
どれもが温かさに満ちている。
落語のように軽妙で、思わず吹き出す落ちもある。
そして最後は少し泣いてしまう。
さだまさしの歌の世界のようである。
こういうのさださん上手いなぁと思わせられた。
 
最後のエピソードの「妖精の子孫」はさださんの仕事仲間であり友人であった人。
「君が世界中を敵に回しても、僕だけは君の味方だよ」と言ってくれた。
こんなふうに愛されたのは肉親以外で初めて。
その一週間後、彼は交通事故で亡くなった。
 
人には出会いがある。
その出会いが実に自分にとりどれほど大切なものであったのかを知るのは、ほとんどそれを失ってからなのである。この出会いがどれほど大切なのかを知るすべもないと知った時、人の取る態度はどちらかだ。
いっそ出会いのすべてを当てにしないか、すべての出会いを大切に抱きしめるか。
「君が世界中を敵に回しても、僕だけは君の味方だよ」
この一言は今でも僕の背骨を支える一言である。誰が敵であっても、彼だけは今でも僕を愛してくれている。「愛されている」という自信ほど自分の勇気を支えるものはないのだ。
 
重たい重たい、一生のエールである。
 
 
こんなにも多くの人に愛されるさださんは本当に幸せな人だと思う。
彼自身の人徳、人柄によるものが大きいのだろう。生まれ持った“運”もあるのかも。
「妖精の子孫」、なんて素敵な響きだろうか。
自分にも「妖精の子孫」いたろうか。
 
そんなことが心の中にありながら、もしかして「妖精の子孫」に出会えない人のことも思う。
さださんは“まえがき”の最後に、
周りを見回して、必ずやあなたを愛してくれている妖精の子孫に気づくはずと書いてくれているが、
そうとも言い切れない現実がこの社会にあるのも事実ではないかと。
能天気な自分などは真っ先に希望を語りたがるが、近頃は現状を映すニュースなどに挫かれることも多い。
特に小さい人を取り巻く状況の過酷さには胸が塞がれ苦しくなる。
 
「君が世界中を敵に回しても、僕だけは君の味方だよ」
たった一人でもいい。
そう言ってくれる「妖精の子孫」がすべての小さい人、か弱き人にいて欲しいと切に思う。