いつもお邪魔しているブログ。
そのブログ主さんが、17年半もの長い間、家族として共に過ごしている猫さんとのことを綴っておられた。
年老いた猫さんをご夫婦で心を尽くし介護する様子に、読んでいて切なくなる。
「死」と「別れ」が静かに近づいていることを感じる、
猫の前では努めて普段通りでいてあげたいと悲しい顔は見せないように、
でも猫から離れると涙が止まらないのだ、と。
一瞬にして涙が溢れた。
それほどの長い年月を「家族」として慈しみ愛してこられた猫さんとの別れが近づいていること、
どんなにか辛くていらっしゃるかと。
猫さんの中には、その方の今はいないご両親や遠く離れた息子さんとの思い出があり、
猫さんを通して感じていた愛する人たちとのぬくもりが消え去ろうとしていることが悲しいとも書かれていた。
そして自分は、
両親との最期の時をこんなふうに身近に心を尽くして送ってあげられなかったことが脳裏に浮かび、
ただただ後悔で、しばらく涙が止まらなかった。
自分をたくさんの愛情で育ててくれた人だったのに、
ずっと心配し愛し続けてくれた人だったのに、
その最期をきちんと送ってあげられなかった。
今でもぶり返す思い。
いつまでもこんなふうに引きずるのは、
きちんと見送ってあげられなかった私への罰かもしれないと、
甘んじて受け入れてさえもいる。
遠距離だったから。
新型コロナの最中だったから。
闘病中も、亡くなってからも、
そうやって諦めたり我慢したりして、蓋をしてきた。
でも、
今でも、
やろうとすればやれたのかもしれないと思って、自分自身を責めては悲しくなるのだ。
そんな時、せめてもの救いと考えるのは、
多分、父と母は空の上で一緒に楽しく賑やかにやっているだろうなということ。
特に父は、先に母が亡くなってから凄く寂しかったはずだから、
こっちの世界にひとりでいるより良かったのかもしれない。
そう考えることで何とか気持ちを上げようとする。
その繰り返しである。
『ほぼ日刊イトイ新聞』の中の読みもので
「さよならは、こんなふうに」
みずからの死、身近な人の死にたいして、みなさんはどう思っていますか。のぞみは、ありますか。
そんな問いかけに応じて、読者の様々な経験や考えていることが紹介されている。
それらを読みながら、ある時はホッとしたり、ある時は心に鈍く刺さったり。
同じ様な経緯の内容を読めば、やっぱりあれはあれで仕方なかったのかなと思い、
最期を家族できちんと見送った内容を読めば、そうしてあげられなかった両親に申し訳なくて辛くなった。
昨年、『ほぼ日』内で糸井重里さんと対談した訪問診療医の小堀鷗一郎さんは
死に正解はないとおっしゃっている。
父と母がああして亡くなったこと。
死に正解がないのならば、
どんなにしても正解にたどり着けないのだとすれば、
やっぱり、あれはあれで仕方なかったのかな。
そう思って少しホッとするのが後ろめたくもあるけど。
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