ここでの「昔」は半世紀近く前のことだろうか。
銀座の数寄屋橋交差点。いまだったら宝くじチャンスセンターがあるあたりに、昔はよく「愛国党」の街宣車が停まっていて、車上では日の丸の旗を振りながら総裁の赤尾敏というご老人が演説していた。
そこで、「世界がアカになってしまう危機」について音の割れたスピーカーで怒鳴ることが、どういう効果をもたらすのかはわからない。銀座を歩く人たちの耳には、音は届いていても言葉が伝わっていたかどうかもあやしい。
そこから交差点の斜めにあたる角には、「SONYビル」という細長い建物があって、日本中でここ以外のどこにもないような新しい文化の匂いをさせていた。片手で持ち運びできるタイプの宇宙船の部品みたいなテレビなんかを売っていた。いや、ちがったかもしれない。当時のぼくには買えっこない商品だったから、売り場を眺めた思い出もない。
(略)
「左翼系の人がハンストをやっていた数寄屋橋公園」や「すきやばし次郎」についても触れられていた。
10歳ほど年上の糸井さんが見た同じ光景を見たわけではない。
会社員として勤めていた20代前半、有楽町駅で乗り換えだった私は、仕事終わりにしばしば有楽町界隈から数寄屋橋辺りをうろついたものだ。
うろつく(彷徨く)などと言うと何だか聞こえが悪いが、「目的もなくあちこち歩き回る。その辺りを行ったり来たりする。うろうろする。(goo辞書より)」がその意味であるなら、まさしくそうだった。
そんなわけで数寄屋橋交差点は自分にとっても懐かしい場所である。
ただし、正直、映像はぼんやり。
なのに当時の自分の姿や心情やらが思い出され、じんわりと切なさも感じる。
少ししんどいことがあった。
それを何食わぬ顔で隠してもいた。
有楽町から数寄屋橋辺りをあてもなく歩きながら、どうしようも無さを置いていきたかったのかもしれない。
何を考えていたのか、もはや朧げだか、雑踏の中にいた自分自身を思い出す。
数寄屋橋交差点で象徴的とも言える「SONYビル」の前で一度待ち合わせをした事がある。
結婚前の夫だったか。
流行に疎く、かと言って流行を追うことに抵抗する娘だった私にとって「SONYビル」前はハードルが高かった。
銀座といういかにも都会の真ん中で、流行の先端を堂々と行く人たちに埋もれ待っている時間の居心地の悪かったこと。
流行に囚われることを良しとしなかったくせに、堂々と出来ず心細かった。
今となれば笑ってしまうのだが、自意識過剰でひとり勝手にビビっていた。
その後の待ち合わせはたいてい数寄屋橋交番前。
自分と同じような匂いを感じる人たちの中にいて、落ち着いて待っていられた。
それでも、数寄屋橋交差点と聞けば「SONYビル」が真っ先に浮かぶ。
仰ぎ見るだけの「SONYビル」だったのに、「ああ、ソニービルがあるよね」と馴染みの場所のように言ったりする。
数寄屋橋交差点近くの宝くじチャンスセンター。その名も「西銀座チャンスセンター」には苦笑ものの思い出がある。
就職して1年目の冬。その日はジャンボ宝くじの発売日。それに合わせて早朝テレビ局が取材をしていた。
詳しい事情は省略するが、私は買った宝くじを手に持ち、取材カメラはその手元をズームアップ。一緒にいた同僚は軽くインタビューに応えた。
昼のニュースで放送されると言うので、昼休み、同僚や先輩とお弁当を食べながら観た。
同僚のインタビューは声だけだったが、そつがない受け答えや可愛らしい声に皆絶賛。
さて次はと、テレビ画面に映し出された宝くじを持つ私の手元を見た時、先輩がすかさず声を上げた。
「やーだ、どうしたの。○○の手、まるでおばあさんみたいじゃない」
こちらこそやーだだったが、誠にもってそうだったので腹も立たない。
「ちゃんとケアしなきゃダメだよ!」と心から心配し言ってくれる先輩の言葉に「はーい」と苦笑いだった。
そうそう起こり得ないテレビ出演(手だけだが)がそんなだったこと、自分らしくて今ではちょっとしたネタになっている。
そう言えば、その後、宝くじは何度か買っているが、「西銀座チャンスセンター」を利用したことはないかも。
宝くじファンなら誰でも知っているだろう超人気の売り場である。
多くの億万長者が生まれ、“宝くじの聖地”とまで言われているそうな。
久しぶりに訪れてみようか。
ソニービル前のソニースクエアに設置された大型水槽、Sony Aquarium。2013年7月、久しぶりに出かけた時の写真です。夏に開催される移動水族館で、沖縄美ら海水族館から運ばれた魚類が展示されていました。
↑よろしければポチ頂けると嬉しいです(^^)/