何度も取り上げさせていただいている糸井重里さんのエッセイ「今日のダーリン」。
先日の書き出しはこうでした。
大人の人間が考えていること、やっていることのほとんどが、未来のための準備だ。未来になにか「目的」があって、それを実現するために必要なことを、いまやっている。
確かにそう。
こうなりたい、こうでありたい、と思う未来のために、今必要なことをやってきたなぁ。
学生時代。社会人になってから。家庭を持ってから。子どもを授かってから。
「目的」や「理想」は変わっても、意識的に、或いは無意識に、ずっとそうしてきた気がする。
今やパワーダウンし、為すがままと少々開き直ったところはありますが、それでも今は今で、何年か先の理想の老後のために必要なことを準備していると言えるのかな。
お金や健康や家族(夫婦)のあり方?出来れば生きがいなんてのも見つけておきたい?
でもさ、って感じで糸井さん。
ぼくらのやっていることのほとんどが、つまりは、「現在(いま)」を「目的(みらい)」のために捧げている、ということになっているんじゃない。
なにかをよくしたい、ましにしたいと思って目的がある。だから、それを実現するのは、よいことである。
しかし、そのために「いま」が、ただの「材料」や、「手段」や「我慢」になってしまうとしたら、んん?それでもいいのだろうか?
「いま」がなにかの途中であるというのも、認めるよ。だけど、その「いま」がつまらなくてもいいのか?
いつかやってくる最高の「目的(みらい)」のために、いまが供物として捧げられているようなことは、ほんとはヘンだと思うのだ。
生きるということは、まさしく「いま」のことなのに。どうぶつや、幼い子どもは「いま」を生きているぞ。
出た!「今を生きる」
素敵なフレーズ。
決して揶揄などではなく、自分もそうでありたい。そうであるべき。それが「生きる」ということであるとさえ思っている。
でも、常にそう出来たかと言うと、そうでなかったんだよね。
実は自分も何度も思ってきたことです。
願う「目的(みらい)」のためだとわかっているけど、どうしてこんなに「いま」が楽しくないんだろう。
遠い「目的(みらい)」のために、「いま」こうしていることが「いま」を犠牲にしているようでなんだか空しい。
理想の「目的(みらい)」を手にするためにしかないこの「いま」に、意味があるのだろうか、とか。
でも、結局「目的(みらい)」のために「いま」を捧げてきた。
そうすることで望んだ「目的(みらい)」を手に出来たこともあった。
だから、そのことはもうそれでいいと思っています。
若い頃の「目的(みらい)」には高みを目指そうとする純粋な思いや理想を実現させたいという瑞々しい意思がありました。
親になってからは我が子のためのより良い「目的(みらい)」をとの強い願いが。
だから「いま」を捧げられたのでしょう。
それはそれでいいのです。
ただ、それらの「目的(みらい)」には当然、欲望や虚栄心もあったはず。こんな自分でも。
この歳になり、果てしない欲望や浅はかな虚栄心の無意味さを知ると、すっかり身軽になりました。
身の丈以上を求める「目的(みらい)」も、今や無い。
「いま」を生きることが出来る幸せを大切にしたい。そう思うのです。
ところで、
「今を生きよう!」って前向きな気分で言ったりするけど、「今を生きる」とはどういうこと?
「今」を生きるんだから、なにか意義が必要?
「今」を生きるための、なにか明確な「目的」が必要?(出た!「目的」⁉)
いや、もういいでしょう。「目的」は。
まさしく「今を生きる」の権化、動物や幼い子どもはそんなこと考えてないでしょう。
「今を生きる」を大命題に生きるなんて、それこそしんどいぞ。
私は私なりの「今を生きる」。
誰と比べることもない。自分の過去や未来とも比べない。
「目的」や「意義」に縛られることもない。
「今を生きる」ことがそれほど楽しくなくたっていいわけで。
「楽しくないから今を生きられていない」と決めつけることはないでしょう。
とにかく、「いま」は「いま」として、自分の「いま」を大切にしてあげたい。
最後の一文は、朝ドラファンの糸井さんならではでした(笑)
「あすなろの木」は、明日でなくて、今日を生きているぜ。
“明日は檜(ヒノキ)になろう”とその名に意味を付けたのは人間?
案外「あすなろの木」は明日のことなど考えることなく、おのれの今日を存分に生きている。
そして明日になればなったで、その今日を生きている。
「今を生きる」のお手本は動物や植物や幼い子どもでしょうね。
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