6年前の6月初めに母が、4年前の5月終わりに父が亡くなった。
なので、毎年5月の終わりから6月にかけての一日に、まとめて二人分(と言うのもアレだが^^;)お参りしている。
両親は瀬戸内海の島出身で、共に80代半ばまで島で二人暮らしをしていたが、終の棲家を愛知県に暮らす兄の近くにと決め、島を出た。
今は名古屋の納骨堂に眠っている。
(今までお墓参りと言っていたが、つい先日義姉が“納骨堂”と言うのを聞き、そうか、あれはお墓ではなく納骨堂なんだと。ではお墓参りではなく納骨堂参りか…と、まあどうでもいいことを考えた次第)
というわけで、今年も名古屋に行き、お参りして来た。
お線香や供える花を準備する必要も無く、全くの手ぶらで大丈夫。
遠方から出かけて来る者には有難いシステムである。
3階建ての建物のエレベーターを上がるとワンフロアにいくつかの扉がある。
指定の場所にカードをかざすと、該当する扉のランプが点く。
その前で待っていると扉が開き、実家の紋所と苗字の書かれたプレートが組み込まれた墓石(ふう)が現れる。
その間、1分程。
生花も綺麗に整えられている。
(これって多分使い回しだよねと苦笑いしながら余計なことを口にするのが常^^;)
焼香し、手を合わせ、心の中で両親に挨拶。
立ち昇る煙がすっかり消えたのを確認し、焼香台に残る灰を払う。
これ以上することもなく、「じゃあね、また来るね」と言いながら横のボタンを押すと扉が閉まりお終い。
滞在時間は10分にも満たない。
もちろん、開いた扉の前で故人の話をしながらしばらく過ごしても構わない。
以前、扉の前の長椅子に座りお供えとして用意されたのか和菓子を食べながらお参りしておられる高齢の女性お二人を見かけたこともある。
が、私自身は結局いつも10分程であっさりと帰ってしまうわけだ。
今回もそんな感じだったので、一緒に行った夫に「もう終わり?」と驚かれた。
手術が成功しますようにとお願いはしてみた。
両親が生きてたらきっと大騒ぎして、わさわさ言ってきただろうなあと思いながら。
母はしょっちゅう電話をかけて来て、ああしなさい、こうしなさいと私に指示しただろう。
父はいつもの様に「観音さんに毎日お願いしてやるからきっと大丈夫や」と言ってくれただろう。
そうして守ってくれていたんだな…
そういう存在がもういないことにも思いが至り、ちらりと寂しさが過った。
兄夫婦の家にも久しぶりに立ち寄った。
父の三回忌以来なので2年ぶり。
今年は母の七回忌だが、自宅にお坊さまに来ていただき、既に自分たちだけでやったらしい。
遠くから来なければならない私たちを気遣ってくれたよう。
声をかけてくれれば喜んで参上したのにと思うが、それは兄には言わない。
二人だけの兄妹。
両親はもうこの世にいないので、伝えておくべきかと手術の話もした。
……………
今回、兄から古い写真のデータが入ったCDを受け取った。
両親のアルバムに辛うじて残っていた写真をデータ化し編集してくれたのだ。
父方の曾祖母から祖父母、母方の祖父母、親戚
父と母の子ども時代、成人してから、そして結婚式の写真
父も母も若く、幼い兄や私が写る家族写真、などなど。
数は多くないが、非常に懐かしいものや初めて見るものもあり、ほっこりしたり驚いたりだった。
ところで、
母の子ども時代の写真を見ると、口を真一文字にニコリともせず、ずい分としっかりした顔つき。
強い気性が現れているようで一瞬驚いたが、いやいや母は本来そういう人だったのだ。
私が子どもだった頃、母は常に穏やかで優しい人だった。(と思っていた)
反面、父は気性が荒く何をしでかすかわからない。(と思っていた)
そんな父をいつも母は宥めフォローしてきた。(と思っていた)
しかし、自分が大人になり、親を一人の人間として見るようになると、母の強情さが見えるようになった。
片や、父は気弱な程に優しい人だった。
母の梃子でも動かない強さに父は傷つき荒れるしかなかったのかもと思ったりする。
おそらく、小学生になるかならないかの頃の母の写真。
私が知る母の強情さに繋がるようで妙に納得。
生前の母を思い出し、ちょっと笑った。
こちらは私と兄。私は1歳くらい。