映画『宝島』観ました。

監督は大友啓史氏。
戦後沖縄を舞台に、史実に記されてこなかった真実を描き切った真藤順丈による傑作小説『宝島』。
審査委員から満場一致で選ばれた第160回直木賞をはじめ、第9回山田風太郎賞、第5回沖縄書店大賞を受賞し栄えある三冠に輝いた本作を、東映とソニー・ピクチャーズによる共同配給のもと実写映画化。
日本に見捨てられ、アメリカに支配された島、沖縄。
全てが失われ、混沌とした時代を全力で駆け抜けた“戦果アギヤー”と呼ばれる若者たちの姿を、圧倒的熱量と壮大なスケールで描く、サスペンス感動超大作が誕生!
と公式サイトにありました。
そして、あらすじ。
1952年、沖縄がアメリカだった時代。
米軍基地から奪った物資を住民らに分け与える“戦果アギヤー”と呼ばれる若者たちがいた。
いつか「でっかい戦果」を上げることを夢見る幼馴染のグスク(妻夫木聡)、ヤマコ(広瀬すず)、レイ(窪田正孝)の3人。そして、彼らの英雄的存在であり、リーダーとしてみんなを引っ張っていたのが、一番年上のオン(永山瑛太)だった。
全てを懸けて臨んだある襲撃の夜、オンは“予定外の戦果”を手に入れ、突然消息を絶つ…。
残された3人は、「オンが目指した本物の英雄」を心に秘め、やがてグスクは刑事に、ヤマコは教師に、そしてレイはヤクザになり、オンの影を追いながらそれぞれの道を歩み始める。
しかし、アメリカに支配され、本土からも見捨てられた環境では何も思い通りにならない現実に、やり場のない怒りを募らせ、ある事件をきっかけに抑えていた感情が爆発する。
やがて、オンが基地から持ち出した“何か”を追い、米軍も動き出す――。
消えた英雄が手にした“予定外の戦果”とは何だったのか?そして、20年の歳月を経て明かされる衝撃の真実とは――(公式サイトより)
ポスターにある“あの頃、沖縄はアメリカだった”のキャッチコピー。
終戦後なお27年間に渡ってアメリカの施政権下だった沖縄で、実際に起きた事件を背景に物語は進んでいきます。
あの日突然消息を絶ったオンは何処へ行ったのか?その前に、生きているのか?
オンが持ち出したという“予定外の戦果”とは何なのか?
前面にあるのはそれを探すことであり、グスク、ヤマコ、レイ、オンの20年を追うストーリー。
ラスト、すべてが明かされ物語は終わります。
グスクたちの物語と絡みながら背景に描かれるのはアメリカ施策権下の沖縄で実際に起こった数々の事件、事故。
米軍関係者による暴行、殺人。
米軍戦闘機が小学校に墜落し子どもたちを含む18人が犠牲になった事故。
被害者はいつも沖縄の罪の無い人々。
その事は自分が生まれる前だったり子どもだったりして、リアルタイムで知ったわけではないけど、少し大きくなってからテレビのドキュメンタリー番組などで知りました。
物語の終盤に描かれたコザ騒動についてもテレビ番組で知ることに。
その時の憤りや虚しい痛みが蘇るようでした。
沖縄が日本に返還された後も、米兵による事件はたくさんあり続けたと記憶しています。
当時、それに対して強く出れない日本政府の対応も情けなくて腹が立った。
グスクが言います。
「平和だって?戦争が終ってからそんなもの一度もみたことねーらん」
「俺はウチナンチューよ
ヤマトゥもアメリカーも信用できんねえ
なんくるないで済むかあ!
なんくるならんだろ!」
『宝島』は沖縄(の人たち)の熱く滾る怒りの映画だと、観終わった後そんなことを思いました。
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改めて調べてみました。
復帰前の沖縄では、アメリカ軍関係者による刑事事件が年間1000件以上起きていた。酒を飲んだアメリカ兵の車に女性がひかれて亡くなったり、アメリカ軍のトラックに子どもがはねられて亡くなったりする事故も起きていた。
それでもアメリカ統治下の沖縄では、事故や罪を犯したアメリカ兵を自ら裁く権利さえ認められていなかった。
(琉球新報より)
戦後の沖縄で最大の米軍機事故と言われる「宮森小米軍ジェット機墜落事故」について
1959年6月30日午前10時40分ごろ、石川市(当時)上空を飛行中だった米軍嘉手納基地所属のF100D戦闘機が突然火を噴いて操縦不能となり、同市の宮森小学校近くの住宅地に墜落した。
衝撃によって跳ね上がった機体は宮森小学校に突っ込み、6年生のコンクリート校舎に激突した。
学校に突っ込む機体から漏れ出した大量の燃料に火が付き、住宅と2年生のトタン屋根校舎の3教室などを焼いた。
当時はミルク給食の時間帯でほとんどの児童が校内におり、18人が死亡(児童12人=うち1人は後遺症で死亡、付近住民ら6人)、210人が重軽傷を負う大惨事となった。
戦闘機のパイロットは空中で脱出。パラシュートを用いて着地し、けがはなかった。
事故直後、米軍は原因について「故障による不可抗力」としていたが、事故報告書によると整備上の人為ミスが複合的に重なっていたことが判明した。
事故は生き延びた児童にも影を落とした。
けがをした児童の中には両手がちぎれる夢を見て夜中にうなされたり、他の子からいじめられたりした子もいた。
米軍は事故の補償を行いますが、その額は被害者側の要求の1割程度に過ぎなかったそうです。(Wikipediaより)
そして「コザ騒動」
1970年12月20日未明。沖縄県コザ市(現沖縄市)で、5千人もの群衆が米軍関係者の車を次々と焼き払う事件が起こった。
「コザ騒動」として語り継がれる一夜限りの出来事。
怒りの炎に照らされた基地の街には、やり場のない叫びが響いた。
「沖縄はどうしたらいいのか。沖縄人も人間じゃないか」
激しい地上戦が繰り広げられ、県民の4人に1人が犠牲になったとされる沖縄は、戦後も米国による統治が続いた。
嘉手納基地に隣接するコザの街は米兵でにぎわい、1960年代に入るとベトナム戦争景気に沸いた。
69年11月、当時のニクソン米大統領と佐藤栄作首相による会談で「72年の沖縄返還」が合意。そんな日本復帰を目前にしていた時期に、コザ騒動は起きた。
騒動の発端は米兵による交通事故だった。
午前1時ごろ、軍道24号(現在の国道330号)で、道路を横断しようとした住民を米兵の運転する車がはねた。
付近の歓楽街から駆けつけた人たちが事故処理中のMP(米憲兵)を取り囲んで騒然とする中、近くで米兵による別の追突事故が発生。
ヒートアップする群衆にMPが威嚇発砲したことが逆効果となり、怒りを増幅させた人たちは次々と米軍関係者の車やMPカーを横転させ、火を放った。
騒動の3カ月前、本島南部の糸満町(現糸満市)で飲酒とスピード違反の米兵が主婦をひき殺す事件があり、12月11日に無罪判決が下されたばかりだった。
米軍人や軍属による犯罪は60年代半ばには年間1000件を超えていた。
しかし、琉球警察は捜査権を持たず、米軍法会議で加害者が無罪になったりアメリカへ帰ったまま未解決になったりというケースも少なくなかった。
さらに基地弾薬庫で毒ガス兵器が貯蔵されていたことが発覚し、「核抜き本土並み」をうたう沖縄返還への不信感なども重なった。
米国の圧政と人権軽視に対する不満がマグマのようにたまり、コザ騒動で一気に噴き出したとされる。
6時間に及んだ騒動ではおよそ80台の車両を焼き払い、逮捕者は21人を数えた。負傷者88人を出したが、死亡者や生命にかかわるようなけがをした人はなく、周囲の店舗などへの略奪行為もなかった。
(琉球新報より)
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戦争中は日本国として対アメリカの最前線に置かれ、激しい地上戦で多くの沖縄の民間人が犠牲に。
終戦後、アメリカの統治下では人権を無視したような理不尽な支配を受け、日本本土からは見捨てられたかのような惨めさを味わった沖縄の人々。
ようやく返還されても結局、日本とアメリカの間で翻弄され、基地問題など対アメリカの矢面に立たされている。
物事を知らない幼稚な感傷かもしれませんが、いつも沖縄ばかりが辛い思いをしているように自分には思えて心が痛いのです。
沖縄は今や多くの日本人(もちろん海外の人もですが)が観光で訪れ、
海や太陽や自然、そして沖縄の人たちの優しさや明るさに癒され幸せを与えてくれる、そんな場所になっています。
でも、そんな沖縄に悲しく辛苦の歴史があったこと。
そして、今も沖縄には重くのしかかるものが在ること。
私たち(本土の人間)は同じ日本人として知るべきだろうと思います。

