すっとんきょうでゴメンナサイ

風の吹くまま気の向くまま

私の“三丁目の夕日”

 
前記事の最後に触れた
三丁目の夕日”シリーズ第3作目『ALWAYS三丁目の夕日’64』
自分にとっての三丁目の夕日はこの時代と言えるでしょう。
スクリーンの中にいる子どもたちはあの時の自分たち。
1964年、つまり昭和39年。私は6歳、兄は10歳の小学4年生でした。
 
映画の中でゴム動力の模型飛行機が空を飛ぶシーンがあるのですが、
「飛ばしに行こうぜ」と駆け出す少年たちは兄や友だちの姿です。
あの頃の子どもたち(主に男の子)は模型飛行機を一から手作りしていました。
竹ひごをロウソクの火で炙りながら曲げたり、機体の前後左右のバランスを細かく調整したり。
それがなかなか難しく、我が家では大抵最後に父が出てきて「オレにやらしてみい」と兄から取り上げる。
まるで職人のような手さばきで完成させた模型飛行機を眺めながら満足そうな父。
それがお決まりのパターンでした。
当時、住んでいた地域では毎年模型飛行機の競技会なるものが行われていて、
確か飛行時間を競うものだったと思うのですが。
兄も(ほとんど父による)自作の飛行機で何度か参加しました。
結果は、飛ばす前の期待感をあっさり裏切り、あっという間に地面に落ちるを繰り返すわけで。
ある年のこと、会場に到着後、本番に備えて飛ばしてみようといつものように気合十分の母が言い出して、
兄も私も毎年繰り返されるガッカリ感で、正直その頃にはやる気も失せていたのですが、
そんな時の母には逆らえません。
じゃあ・・と兄が飛ばした飛行機は、しかし、今まで見たことのないバランスでふわっと気流に乗り、
そのままどんどんどんどん遠くへ飛んで行こうとするではありませんか。
「あーーー!」と叫ぶ私たちを置き去りにして、華奢な機体はご機嫌で丘の向こうへ消えてしまいました。
すぐさま丘の向こうへ、そのまた向こうまで探し回りましたが結局見つからず、
本番にさえ参加出来ず、すごすごと帰った私たち。
母も兄も相当なダメージで、ほとんど喋らない帰り道の遠かったこと。
何か話さなくちゃと「あれ、もし本番だったら絶体優勝だったね」と私。
慰めにもフォローにもならないことを言い、余計ふたりを落ち込ませたかもしれません(苦笑)
 
また、
スクリーンの中でザ・ピーナッツ恋のバカンスを歌うお年頃の女の子や、
「レーナウーン レナウン レナウン♪」と真似する子どもたちは、
おませだった幼稚園児の私かな。
それから「シェー!」
あの時の私たちは至る所で隙あらばそのポーズを繰り出したものです。
教室や運動場、公園や家の中で。
ひとりでも、みんなとも、家族とも。
「ナ~ンセンス!」なんてのも訳分からず叫んでいましたっけ。
 
昭和39年は東京オリンピックの年。
新しもの好きな修理工場の主人が“カラーテレビ”を買うんです。
それでもって隣近所が集まってオリンピックの開会式を観るんですよね。
そんなシーンにもまったくもって覚えがあります。
東京オリンピックではなく、その4年後のメキシコオリンピックですが、
お向かいのお宅がカラーテレビを買ったというので、ご近所が集まって開会式を見せてもらいました。
“カラーテレビ”ってやつのなんとまあ鮮やかな色彩に胸躍り、子どもながら技術の進歩に感心したものです。
 
堀北真希ちゃん演じるろくちゃんが開通したばかりの新幹線でハネムーンに出発するシーン。
同じようなファッションに身を包んだ新婚さんたちがホームのあちらこちらにいて、
歳の離れた従姉がやはりそうして新婚旅行に出かけたことを思い出しました。
名古屋駅に見送りに行き、皆で万歳したようなしなかったような。
 
 
昭和どころか平成も終わり、今や令和の時代となり、
今の若い人たちが見たらへえー?って驚くこともあるのかな。
それでも、昭和の良き時代に子どもとして過ごせたこと、ラッキーだったなと思います。
 
実は昨日、NHKひよっこ』の再放送をたまたま観ましたもので、
昭和時代へのノスタルジーが蘇り、連日の記事内容となりました(^^;
 
 
・・・

 

 
埼玉県桶川市 普門寺のしだれ桜
 
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