一昨年の5月末に亡くなった父の一周忌及び三回忌法要に参列してきました。
本来なら昨年行うはずだった一周忌がコロナ禍で一旦延期。
秋ごろにと話していたところ、その後さらに感染者数が増加し、多くの県で緊急事態宣言が発令。
それで、この際一周忌と三回忌を一緒にやろうと施主の兄が決めたのでした。
感染者数の多い県に住む私たち夫婦が県をまたいで行くことも少々憚られる思いがあり
そう決めた兄の考えに異論はありませんでした。
ただ、
致し方ないとは言え、一周忌が出来ないまま父をほったらかしにしている感が心の隅っこにあったのも正直なところ。
なので、今回無事法要を済ませることが出来、ホッとしています。
遺影の父もなんだか嬉しそうに見えます。
寂しがりやで、ちょっといじけるところもある父だったので
「ダイジョウブだよ、パパのこと忘れてないからね」と手を合わせました(笑)
……………
晩年、故郷香川県の島を離れ愛知県の兄家族の近くで暮らしていた両親。
埼玉に住む私にとり少し近くなったとは言え、直ぐに直ぐ行ける距離ではなく
そういうこともあり、母も父も死に目に会えなかったことが今でも残念です。
母の場合は突然だったので仕方なかったとまだ思えます。
それにまだコロナ禍ではなかったので、亡くなる1ヶ月前にゆっくり会って話をすることも出来た。
(それでも心残りや後悔はありますが…)
父は最後の一年間ほど、肺の持病もあり、肺炎を何度も引き起こしては入退院を繰り返していました。
コロナの感染拡大が始まる直前、ようやく退院出来た父に会いに出かけました。
父自身何か感じていたのか、別れ際直立不動で手を振りいつまでも見送ってくれて
最後に深々と頭まで下げてくれたのです。
それが私が見た、父が立っている最後の姿でした。
その2ヶ月後、再び入院した父。
しかし、同時にコロナの感染が拡大し、父を見舞うことは一切叶いませんでした。
父とその次に会えたのは、4ヶ月ほど経過した亡くなる一週間前。
担当医師が会いたい人がいるならと許可してくれた面会で、もうあまり長くないのだろうなと理解しました。
嬉しそうに手を挙げて迎えてくれた父でしたが
「水を飲ませてくれ」と苦し気な息で何度も訴える父に「看護師さんに止められているから出来ない」と言うと
「もう帰れ!」と昔の様に怒った父。
(その日のことは以前記事に書きましたっけ(;^ω^))
思春期の頃、父とは毎日喧嘩ばかりでしたが、ほんのわずかな面会時間に最後まで喧嘩か…と苦笑い。
ただ、そんな憎まれ口がきけることに逆にこちらの胸の塞ぎが晴れた気もしたのです。
弱弱しく感謝の言葉など言われたら、憐れで可哀想で辛かった。
父の親心と思って有難いと受け止めようと思いました。
あと一週間で命が消えるのなら、父の望み通り水を飲ませてあげればよかったのかなと、亡くなってから時々、そして今でも考えます。
結局父は亡くなるまでの2ヶ月と少しの間、家族の見守りもほとんど無いまま病院で一人、闘病したことになります。
電話は頻繁にかけるようにしましたが、そのうち電話に出ても意味がわからないことを言うようになり
病気の辛さに加えて、精神的にどれだけ寂しく不安だったことか。
父の闘病中何も出来ず、旅立ちの時にも傍にいてあげられなかった悔いが今でも心に残っています。
時々こうして蘇り、その度ちょっと辛い。
いつになったら、あれはあれで仕方なかったんだよと自分自身が思えるのかな…。
母が亡くなって4年、父が亡くなってようやく2年なんだなぁ。
まだ痛くても仕方ないか。
いつか時が癒してくれる。そういうものなのかもしれませんね。
……………
法要終了後は兄が予約してくれていた会食の場へ。
地元で有名な鰻のお店での鰻会席。2回目です。
うざく、肝焼き、白焼き、うまきなど、普段滅多に食べられない鰻料理の数々。
そして、名古屋めしと言えばのひつまぶし。
最後のデザートは今年初のスイカで、御馳走さまでした( *´艸`)
兄夫婦の心遣いにいつも感謝です。
(ホームページからお借りしました。写真を撮ることをすっかり失念し、ガッツリ食べてしまいました^^;)
この日はけっこうな雨で、そう言えば前回(父の四十九日法要)来た時も大雨だったという話になり
鰻大好きだった母が私にも食べさせろと怒って雨を降らせたかなと皆で笑いました。
有り得なくもない……………( ̄▽ ̄;)
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