先週の水曜日、夫が隣県の実家から戻って来た。
翌日、夫の「喉が痛い」発言。
嫌な予感がして「コロナじゃない?それともインフルエンザ?」と言ってみるが、「熱が無いから違うだろ」と妙な自信で返される。
けれど金曜日、いよいよ喉の痛みが酷くなる。(だーかーらー、言ったじゃない!と内心叫ぶ)
私も喉が痛い気がして来た。
翌週に控えている日帰り手術があり、夫自身もマズイと思ったのか、夕方になって近くの内科医院に駆け込み、検査をしてもらう。
👨「ダメだったー!コロナだったー」
👩(だーかーらー!💦)と再度心の中で叫ぶが、時すでに遅し。
水曜日、木曜日と普通に一緒に食事をし、会話をし、過ごした。
金曜日こそ、朝食、昼食とリビングに出てきた以外はずっと自室に籠っていた夫だったが、夫のコロナは私に感染していた。
これで2回目である。
前回も夫が先に感染、発症し、その2日後に判で押したように私が同様の経過で感染、発症した。
前回は新型コロナの薬を処方してもらえたが、今回は特に無し。(ロキソニンとトローチが出た)
熱や痛みに対処しながらただただ養生する高齢者2名。高熱が出なかったのはラッキーだった。
発症から一週間ほどが経過し、ようやく体調が戻って来た。
軽い喉の痛みと微熱が続く中、家に籠り漫然と過ごした日々の楽しみはカーリング日本選手権のテレビ放送だった。
明日準決勝、明後日は決勝である。
ちなみに、今週木曜日に行う予定だった夫の日帰り手術は来月に延期となった。(そりゃそう^^;)
………………
今週のお題「10年前の自分」
10年前の2015年は一言で言えば、本格的に親の介護が始まった年
その前年に、一人暮らしをしていた義母が転倒→骨折→入院→リハビリ入院→手術→リハビリ入院を辿り、2015年3月に退院。
車いす生活となった義母を夫と私で遠距離在宅介護をすることになった。
埼玉県の自宅と群馬県の義母宅を車で行き来しながら、デイサービスとショートステイを駆使しやり繰りした。
香川県の島に暮らしていた実両親は義母より歳上で、その3年程前から年に3回程度帰省しながら手助けして来た。
2015年3月から義母の在宅介護をすると決まってから、両親はもう私を当てにしてはいけないと考えたのだろうか。
2015年9月、愛知県の兄のそばで暮らすことを選び、生まれ故郷の島を出た。
兄の家からは歩いても行ける距離で、綺麗な団地暮らし。
それでも、歳を取ってからの初めての場所、慣れない家で、うまくやって行けるのだろうかと心配で、ちょっと可哀想で、毎月一週間ほど生活支援に向かった。
義母の介護スケジュールの合間を縫いながらの、これまた遠距離支援。
大変ではあったが、私が行くのを心待ちにしている両親をガッカリさせたくなくて、せっせと通った。
そんな2015年だった。
今思えばあっという間の一年だったなあ。
その後のこと。
母が家の中で転倒し圧迫骨折をしたのは2017年だったか。
病院を退院後、サービス付き高齢者向け住宅に父と移る。
もともと心臓が弱かったが、最晩年は「しんどい、しんどい」と繰り返し、最期は心臓が突然止まり亡くなった。
たまたま後ろにいた父の腕の中に倒れ込んで、母にしたら一番安心できる場所だったかもしれない。
2018年6月だった。
父はそのちょうど2年後の2020年5月末に亡くなる。
母が亡くなった後の一人暮らしは父には耐えられない寂しさだったのではと思う。
70代半ばで罹った肺がん以降ぷっつりと止めていた煙草を再び吸うようになり、肺の状態を悪化させた。
入退院を繰り返し、コロナ禍で誰も面会に来ない病室で独り苦しんだ。
亡くなる一週間前、医師の許可が出てようやく会いに行けた。
すっかり衰えてしまっていたが、帰り際の私に憎まれ口をきいて、それが私にとっての父の最後の言葉となった。
最期のその時は兄家族が立ち会ってくれた。
コロナ禍の当時、仕方なかったと思いつつも、寂しがり屋の父が多分寂しさの中で亡くなっただろう事、可哀想だったなと思う。
義母は2年と少しの在宅介護の後、2017年に特別養護老人ホームに入所。
腎臓の持病がありながら、安定した生活環境のもと、体調も良く、穏やかに過ごした。
亡くなる半年くらい前から認知症の症状が出始める。
食べる事の大好きな人だったが、だんだんと食欲が衰え、亡くなる一週間前から食べ物をほとんど口にしなくなる。
そして、まさに眠るようにの言葉通り、見事な大往生。
2022年11月のことだった。