すっとんきょうでゴメンナサイ

風の吹くまま気の向くまま

父と兄と


今シーズンの冬は そーとー寒いようです。
先週、首都圏、関東地方にもかなりの雪が降り、いつもながらの大騒ぎでした。


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高層ビルの最上階から。
雪化粧をした街並みの向こうに富士山が光っていました。



ここに何度も登場いただいている糸井重里さん。。
(いえ、失礼!ご本人様はご承知ではないのですが・・)
お父様とのスキーの思い出を書かれていました。

スポーツに全く縁がなく、本を読んでいるか酒を飲んでいる男だったという父上が
どういうわけかスキーだけはして、幼き頃の糸井さんは何度も一緒に行かれたそうです。

小学生にスキーを教えるのが、得意だったわけもなく。
父は、無理なことをさせてはぼくにスキーを憶えさせた。
ひとりでは乗れないリフトに、ぼくをなんとか乗せて
転びながらリフトを降りた小学生を置いて、
じぶんは先に滑り降りて見えるところで待っている。
ボーゲンをやっと覚えた程度の小学生は、
滑っては転び滑っては転びしながら、父のいるあたりまでようやくたどり着く。
また、父はそのまま斜面を降りていく。
ぼくは転んだり立ち上がったりしながら、少し泣く。
悲しいのか口惜しいのかわからないが、涙が出た。
なんでこんな目にあわなきゃいけないんだ、とも、
もう駄目だとか本気で思ったりしながら滑り降りた。
あのときの気持ちは、まだ憶えている。
嫌なことも山ほどあった父とのスキー旅行だったけれど、
不思議と、父を嫌いになることも、スキーを嫌いになることもなかった。
あの頃の父は、たぶん四十歳そこそこだったと思う。


ふと、父が思い浮かびました。それから兄のことも。

私たちが子どもだった頃、我が家も毎シーズンのようにスキー旅行に出かけました。
おそらく兄も、糸井さんの場合のように父にスキーを仕込まれただろうと思う。
涙でぐしゃぐしゃ、真っ赤な顔で一人で必死に滑り降りてくる兄が、幼心に痛々しく思えたのを憶えています。
と言うか、糸井さんのお父上があまり子どもに関わらず放任しながら鍛えていくのに対し
父は口も手も出す鬼コーチという感じかな。

子ども相手にキャッチボールをする時も父は常に全力投球でした。
グローブ越しとはいえ、小学生だった兄の薄い手には痛かったのでしょう。
いつも最後には泣きながら父のボールを受けていましたっけ。
逞しく自立した男になれとボーイスカウトに入れられたのだけど、周囲のメンバーと比べて何だかひ弱な兄。
キャンプに参加し大ケガをして帰宅した兄に、父は第一声、詳細を尋ねることもなく叱りつけました。
「皆に迷惑をかけて、情けない!」と。
心配の余りだったのだろうと今はわかりますが
ケガの痛みに加えて労わりや慰めの言葉も無く頭ごなしに叱られた心の痛みが
兄をすっかりへこませてしまいました。
ぺちゃんこになるかと思うほど塞ぎ込む兄が可哀想で、私は冗談の一つも言えず、ただ傍にいたのでした。

長男である兄をしっかり育てたいという思い。
期待もあったでしょう。

高校生になり、父の仕事の都合で家族と離れて暮らすことになった兄。
それがある意味、兄にとっては良かったかもしれません。
初めての環境と他人の中で、親と離れたった一人歩き出した兄は
やがて、逞しく自立した大人になりました。
あっけらかんとした明るさも身につけて。


父の厳しさを疎んじ、どんな説教も少しも納得したように見えない兄でした。
まして親の期待に応えようなどと思ってもいなかったでしょう。
それでも、
父が兄に伝えようとした何かが兄の根っこにはあり
困難に出逢った時、無意識の中でそれらに支えられ立ち向かう強さにもなって前に進めたのではないかと
そんなことも思うのです。
結果、親が望むような一人前の大人に成長したこと。
まだ若かった父と子どもだった兄のあれこれを思い返しながら
実は明快な道筋が無いのかもしれない親と子の関係を改めて考えました。

今、父と母は住み慣れた土地を離れ兄の近くに住んでいます。
老いて自分たちだけでは出来ないことも増え、兄に助けて貰いながら暮らしています。
父のことだから、自分なりに気持ちの整理をし、しっかりけじめも付けたのでしょう。
兄の意見に潔く従う、すっかり物分りの良い父となりました。


余談ですが、
それほどまでに兄に厳しかった父も、娘の私には何故か甘甘で
親のせいということでは決してないのですが、結果、こんな人間に。
偉そうに強がっても根本は甘ったれ。

ただ、
心の底から甘えられた経験は
こんな歳になっても自分を温めてくれる、かけがえのないものであることも確か。
自分の根っことなり支えてもくれるのです。
(と、都合のいいように考えておこう