いつもお邪魔しているブログで「宝くじ」について書かれているのを拝読しました。
それで思い出したのですが…。
時はバブル景気の頃。1980年代後半でしょうか。
夫の会社も少なからずバブルの恩恵を受けたようで、ある時のボーナス。
「ええっ!!(≧∇≦)」と思わず歓喜の声があがるくらいいただけまして。
(と言っても多分世間的には大したことないのですが^^;)
その頃はまだ賃貸住宅に暮らし、住宅ローンも無し。
子どもたちも幼く教育費にはさほどかからず、さあ、どうするって話になりまして。
「宝くじ」買ったんですよね。ドドーーン!と100枚。
滅多に買ったことのない「宝くじ」。たまに買っても10枚。
ほとんどの確率で無駄になるものにお金遣えませんから。
ジャンボ宝くじ、100枚。当時の(今もです)私たち夫婦にしたらめちゃくちゃ大人買いでした。
さあ、どうだったと思います?
100枚買って、末等10枚のみ。
30,000円費やして、3,000円の当たり………?これって当たりって言うのでしょうか。(言わない)
最初のうちは胸躍らせながら一枚一枚数字を見ていましたが、半分くらいから(まさか一枚も…?)と嫌な予感。
最後に近づくにつれて、(なんだよー、どういうことだよーー!)とムカついてくる。
最後の一枚がただの紙切れと引導を渡された時、ムカつく気力さえなく、虚しさに打ちひしがれる夫と私でした。
100枚では足りなかったのだろうか。
例えば1000枚買えば当たったのだろうか。
300,000円払い1億円当たれば元が取れるどころの話じゃない。100万円だっていいよね。
だけど私たち庶民が「宝くじ」に300,000円も遣える?もし外れたら被害は甚大だよ。ショックでしばらく立ち直れない。
私たち庶民はほどほどの金額でちまちまと「宝くじ」を買い続けるしかないから、チャンスは薄く、夢は遙か彼方なのだよ。
そしてお金持ちは、たくさんの枚数(しかも彼らにとってはたいして痛くもない金額なのだろうなぁ)を購入し、高額当選のチャンスが広がる。
こうして、お金持ちはますますお金持ちになり、我ら庶民は庶民のまま。
はぁ………..( _ _)ノ|
少ない枚数で高額を当てる。それが「宝くじ」の醍醐味でもありましょうが、なかなか難しいわけでして。
一枚買いで高額当選したという話を聞くと、「あっぱれ!」と拍手したくなります。
……………
父は生前、「宝くじ」をまめに購入していました。
高額ではないにしても時々当たることがあったようで、帰省した折などに嬉しそうに報告してくれました。
ある時、「あ、そういえば、パパ宝くじ当たったんよ」と珍しく母の方が口にしたら、「それ以上言うな」と父が制したのです。
(なに?)と思いましたが、聞かない方がいいんだなと聞くことはしませんでした。
おそらくけっこうな金額が当たったのだろうなと。
いつもの様にさらっと言えないような。
それで、ちょっとちょうだいと言われたら困るとでも考えたのでしょうか。
でも、ワタシ、それを聞いたからって欲しいって言いませんからーー!
って心の中で呟きながら気分悪かったのを覚えています。
父のそういうとこ、好きじゃなかったなぁ。被害妄想的と言うか、人の気持ちを悪く推し量るとこ。
その後、その話は一切出ませんでしたね。
義母も「宝くじ」を時々買っていたようです。
街中に出かけた際、思いついて売り場に寄り10枚買って帰る、という軽いノリ。
たいして欲の無いのが神様に好印象だったのか、少額ですが何度も当たりました。
ある時、10万円が当選。私たちに「あげようか」と言うのです。
もちろん断りましたが、本当に欲が無いなあと夫と話したものです。
そういう人が当たるんだろうなあとも。
ならば、前のめり気味に「宝くじ」をゲットし、捕らぬ狸の皮算用ばかりの私たち夫婦には当たらないねと苦笑いでした。
「宝くじ」当てたくて買うのだけど、当たったら当たったで思いもしない人間模様があるのでしょうね。
良いことばかりではないだろうなと想像出来る気がします。
確か高額当選者には“「宝くじ」が当たったら心すること”みたいな、指南書的な冊子が渡されるんじゃなかったかな?
「はてな記法」というものを試しています。
実は、以前やっていたブログは記事内の行間がそれほど空いていないものでした。
なので、はてなブログに移った際、行間が空いていることに少し違和感があったのです。
今はそれが普通になり、かえって字が詰まっていない分読みやすいのかなと思うように。
ただ、先日、編集画面の編集モードをクリックしたところ「はてな記法」とあり、
これは何?とさらにクリックしたら、なるほどそういうことかと。
それでちょっとやってみることにしました。
お気づきでしょうか。
デザインもあれこれ変えながら試しています。
ただ今、一所に留まれない性分、発動中です(^▽^;)