すっとんきょうでゴメンナサイ

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しょうがないねぇ~「業の肯定」


「落語とはなにか?」と問い
「業の肯定を前提とする一人芸である」と言ったのは立川談志さんだそうだ。

糸井重里さんのエッセイ「今日のダーリン」より。

そうすると「業」とはなんなんだということにもなるが、これはもともと仏教の「カルマ」からきているらしい。
恐れ多いけど、ぼくなりの言い換えをするなら「善いも悪いも含めて人がやっちまうこと」かなぁ。
落語のなかによく出てくるセリフに、「しょうがないねぇ」というのがあるけれど、それが「業の肯定」を表しているようにも思える。


植木等さんの歌った「スーダラ節」(作詞・青島幸男)には
「わかっちゃいるけどやめられねぇ」という歌詞がある。
生真面目な植木等さんは僧侶の父上に
「こんな無責任なこと言って騒いでいる歌はどうなのか?」と相談した。
すると、浄土真宗のお坊さんである父上は
「これこそ人間の真理、親鸞の教えに通じる」と励ましてくれたそうだ。

これも「業の肯定」に通じる話だと糸井さん。

「しょうがないねぇ」にしても、「わかっちゃいるけどやめられねぇ」にしても、
しっかりした人の、ちゃんとした理屈からしたら、「そんなことじゃいけない」と叱られそうなことだ。
しかし、それは「業」として人間に備わっているものであると考える、そういう人間観世界観が落語であると、立川談志という人が見つけたわけだよねぇ。
人がとげとげしくなって、さかんに角突き合っているとき、落語の世界にひたりたくなるのは、そのあたりが理由だね。


「善いも悪いも含めて人がやっちまうこと」
あるある。

「わかっちゃいるけどやめられないこと」
あるなあ。

確かに、落語はそんな人間の「業」を赤裸々に語っている。
それでもって「業の肯定」を前提としているってすごくわかる。

そもそも人間に備わっている「業」を肯定し
その有り様を愛を持って語る落語の世界観。

「しょうがないねぇ」と許す人物も登場して。

可笑しくて情けなくて
切なくてあったかい世界だ。


寅さんの世界もそうだなぁ。

……………


自分の中にも間違いなく有る「業」。
自分のことを棚に上げるのは気が引けるので
人の「業」についてもまあそんなもんかなあとルーズに受け止める様にしている。

「しょうがないねぇ」と許してもらえると嬉しいから
自分も「しょうがないねぇ」と言える人間になりたい。


ところで、話は全然違う方へ飛ぶけど
名古屋市長がソフトボール金メダリストのメダルを齧ったのも「業」の為せることだったのだろうか。
「わかっとるけどやめれんかったんだわ」って?

これは「しょうがないねぇ」とはどうしたって言えない。


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