すっとんきょうでゴメンナサイ

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大学受験の思い出~母娘旅


今週のお題「試験の思い出」

大学受験の思い出……
今から46年前の話である。


周囲の仲間たちもほとんどそうだったように
コレといった明確な目的もなく
流されるように大学進学を決める。


本当は大学に行かずにやってみたい事もあったが
やりたい!とか、やってやる!というような強い意志が結局のところ無かったので
ぐずぐずしている間に、自分の前には受験しかなかった感じだ。


そんなあやふやな人間に決して安くないお金を払ってまで大学進学など
今、自分が親なら即却下だが
当時はとりあえず大学へ行けばその後の人生は安泰みたいな風潮があり
自分の親も「とりあえず大学へ行きなさい」と言った。

そして自分は、そんな甘々なことを言ってくれる親に
「目的もなく大学へ行くなんて無意味だ」と突っ張りながらも
自分で道を切り開く意気地が無かったのだ。


そんなだから受験勉強に全く身が入らなかった。


私が受験した時代は現在のように共通テストといったものは無く
1~2月に私大、国立大学は3月上旬に1期校、下旬に2期校が受験できた。

建て前として、少しでも親の負担を減らそうと学費が安い国立が希望。

ただ、国立は試験科目も多く、勉強量が壊滅的に足りない自分には多分無理ということはわかっていて
かと言って、浪人して一年受験勉強に励むのも根性の無い自分には無理だろうと考えていた。


私立は2校受験することにした。

一つは万全を期して完璧なすべり止め、A大学。

更に、それでも不安だった母に「もう1校受けときなさい」と言われ、A大学より偏差値がやや高めのB大学。
A大学には受かる妙な自信があったので、難易度が少々上がってもいいと思った。


ところが、絶対大丈夫と思っていたA大学が初っ端不合格となり呆然自失。

ようやく“おし○”に火が点く。


B大学の試験科目は国語、英語、生物。

唯一得意科目だった国語と
授業が楽しくて真面目に取り組んでいた生物は何とかなる気がして
自分の場合、英語の成績が合否を分けると考えた。

とは言え、文法とか熟語とかはもう間に合わない。
とりあえず単語を憶えれば少しでも何とかなるかと
受験の日までひたすら英単語を頭に叩き込んだ。


果たして、B大学受験の日。

1限目の国語は思惑通りの出来。(よしよし)

2限目の英語は叩き込んだ英単語を引っ張り出しながら長文を読み解き、設問にも答えることが出来た。
終了後入ったトイレの中で(これはイケるかも)と思った。

3限目の生物も授業で勉強したところがそのまま出題され(ラッキー!)。


B大学の合格発表は国立1期校の試験期間と重なった。

中国地方の大学を受験する為に地元を離れた私の代わりに、父が発表を見に行ってくれることになった。

母はというと、何故か受験する私にくっついて来て、ちょっとした旅行気分。
旅館に着いて早速くつろいでいる。


そんな中、父から「合格しとったぞ」の電話が入り、私と母は大きな声で喜び合った。
とりあえず入学できる大学が決まったことで心からホッとした。
もうB大学でいいとも内心思った。

夕食の熱々の牛鍋をつつきながら、正直、翌日の試験に向かう気持ちが萎えていく私だったが
そんなことを口にしたら母に怒られると心に仕舞っていたら
母はよほど嬉しかったのか、それとも心配するのがもうイヤだったのか、「もうB大学でいいんやない?」と言った。

母も同じ思いだったことに一瞬驚きつつ、でもホッともして、いよいよどうでもよくなっていた。


本来、大学受験の深刻な旅だったはずが
上げ膳据え膳で美味しいもの食べて、二泊三日の母娘のんびり旅へと、いつしか主旨が変わっていた。


今思えば、母と二人だけの旅はそれが最初で最後だった。

私も私だが母も母だったなぁと懐かしく思い出す。


その後、母のお墨付きもあれば、そりゃ楽な方へ流れるのは怠け者の自分にとっては必定。

残りの受験勉強はますます身が入らなくなり
予想通り国立大学は1期2期とも不合格。

結局受かったのはB大学のみだった。


「もう1校受けときなさい」と言った母に
「どうせA大学受かるんだから必要ない」と啖呵を切り
「それでもとにかく願書出すだけ出しておきなさい」と食い下がる母に
「A大学受かったらB大学は受験しないからね」とエラそうに言い放った私。

後で自分のおバカを思い知ることになる。

願書出しておいて良かったと(心の中で)母に感謝したのだった。



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