「日日是好日 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ」
森下典子著
名前だけは知っていた。
とても評判になり、映画になったことも知っている。
ちょっとしたきっかけでAmazonでポチった。
樹木希林さんや黒木華さん、多部未華子さんが出演した映画の方は2年前だそうだが
この本自体が刊行されたのは2002年。18年も前なことに驚く。
ずーっと興味があり読んでみたいと思いながら18年経っていることに。
思いついてから行動に移すのがそもそも遅い方ではあるが。
そして、本が届いてから4日経ち、ようやく“まえがき”と“序章”まで読む。
世の中には、「すぐわかるもの」と「すぐにはわからないもの」の二種類がある。すぐわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど、すぐにわからないものは、(略)何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しずつじわじわとわかりだし、「別もの」に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったことに気づく。
「お茶」って、そういうものなのだ。
すると、ある日突然、雨が生ぬるく匂い始めた。「あ、夕立が来る」と、思った。
庭木を叩く雨粒が、今までとはちがう音に聞こえた。その直後、あたりにムウッと土の匂いがたちこめた。
それまでは、雨は「空から落ちてくる水」でしかなく、匂いなどなかった。土の匂いもしなかった。私は、ガラス瓶の中から外を眺めているようなものだった。そのガラスの覆いが取れて、季節が「匂い」や「音」という五感にうったえ始めた。自分は、生まれた水辺の匂いを嗅ぎ分ける一匹のカエルのような季節の生きものなのだということを思い出した。
お茶を続けているうち、そんな瞬間が、定期預金の満期のように時々やってきた。何か特別なことをしたわけではない。どこにでもある二十代の人生を生き、平凡に三十代を生き、四十代を暮らしてきた。
その間に、自分でも気づかないうちに、一滴一滴、コップに水がたまっていたのだ。コップがいっぱいになるまでは、なんの変化も起こらない。やがていっぱいになって、表面張力で盛り上がった水面に、ある日ある時、均衡をやぶる一滴が落ちる。そのとたん、一気に水がコップの縁を流れ落ちたのだ。
生きにくい時代を生きる時、真っ暗闇の中で自信を失った時、お茶は教えてくれる。「長い目で、今を生きろ」と。
“まえがき”よりいくつかの文章を引用させていただいた。
「お茶」を通して知り得た作者の思い。
私は「お茶」を知らないで今日まで来たが
今の自分にとって、この“まえがき”部分で既に共感が半端なく
これから読み進める「15のしあわせ」が何なのかとても楽しみ。
お茶を味わうごとく、ゆっくり味わっていきたい。
ところで、
この本を手に取った末っ子が「あれ?ひびこれこうじつじゃないんだ」と。
“にちにちこれこうじつ”とルビがふってある。
私もずっとひびこれこうじつと読んでいたので、果たしてどうなのかとwikiってみた。
「日日是好日」は禅語の一つで、読みとしては「にちにちこれこうにち」が正しいとされているらしい(ほとんど違ってた( ゚Д゚))
ただ、「にちにちこれこうじつ」とする例もあるそう。
日常的な表現としては「ひびこれこうじつ」とも読み、その読みで作品名や商品名になっている例もあり
同様に「ひびこれこうにち」「ひびこれよきひ」もあるとか。
なんだ。自由だ(笑)
表面上の文字通りには「毎日毎日が素晴らしい」という意味。(「岩波仏教辞典」より)
そこから、毎日が良い日となるよう努めるべきだと述べているとする解釈や
さらに進んで、そもそも日々について良し悪しを考え一喜一憂することが誤りであり常に今この時が大切なのだ、
或いは、あるがままを良しとして受け入れるのだ、と述べているとする解釈がある。
(Wikipediaより)
「日日是好日(ひびこれこうじつ)」と今まで知ったように口にしながら
そこから導かれる深い解釈を今回初めて知り、ハッとする思いだった。
日々についてその良し悪しで一喜一憂せず
あるがままを良しとして受け入れる
その様に日々を過ごせたら何と穏やかかと思うが、これが難しい。
あるがままを受け入れること自体が難しいのだから
それを良しと思えるまでにはなかなか…。
ただ、そうあれたらと思う。
そうしてその先には何か見えるのだろうか。
それとも最後のその時まで、あるがままの一日であるだけなのか。
それでいいのだとも思う。
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