コメントをくださった方に「不惑の年はとうに過ぎた」とお返事を書きながら、ふと思った。
じゃあ、今はなに?
で、調べてみた。
「而立」(じりつ)・・・三十歳 「論語」の「三十にして立つ」による。
学問が備わって自分の立場が出来上がる年、の意。
人生の方向が定まって迷わなくなる年、の意。
天から与えられた使命を知る年、の意。
修養を積んで他人の言葉を素直に受け入れられるようになる年、の意。
他にも、「弱冠(じゃっかん)」・・・男性の二十歳や
「還暦」「古希」「喜寿」「米寿」「白寿」など、特定の年齢の別称がある。
驚いた。
全然、追いついていない。
「志学」の時、初めて自分の判断で進む学校を決めたという意味では、学を志したか・・
「而立」の時、そのあたりで妻や母という立場で自分の家族を作ったという意味では、そうなのかなぁ・・・
しかし、
「不惑」の時、人生の方向性は定まるどころか、あれもこれもと手を出してオーバーヒート。
迷い道に突入したあげく、無理やり突き破っていろいろなものを壊してきた。
そして、今はなんと「知命」の時。
「五十にして天命を知る」とおっしゃるが、
天から与えられた使命が何なのか、
五十を四年過ぎようとしているが、未だわからず。
そもそも天からの使命があるのかもわからないけれど。
ちょっと感動したのは「耳順」の示す意。
人は、六十にしてようやく他人の言葉を素直に受け入れられるようになるということ。
しかも、修養を積んだ六十歳である。
深いな~~
それほど他人の言葉を素直に受け入れるということは難しいし、
そのためには人生の修養が必要ということなのだろう。
せめて、「耳順」の歳にはそのような人になりたいものだ。
(でもこういうのって、飛び越えちゃっては叶わないものかしらん?)