すっとんきょうでゴメンナサイ

風の吹くまま気の向くまま

自分の背中


本日の天声人語

初っ端から掴まれた感じで
己の心の“なるほど” そして“しみじみ”のツボにはまりました。


 地球が球形なのは誰でも知っている。それを踏まえて、自分の目で見て一番遠いところにあるものは何か?
答えは自分の背中だという。地球一周4万キロのかなた。むろん冗談だが一端の真理はある。
自分の「背中」ほど見えにくいものはない。

 背中とは、その人の無意識がただよっているような、不思議な場所だ。
きょうが没して50年の作家吉川英治に「背中哲学」という随筆があって、
「どんなに豪快に笑い、磊落(らいらく)を装っていても、その背中を見ると、安心があるかないかわかる気がする」と書いている。
 顔と背中が、二つの仮面を合わせたように違う人もいるという。正面は取り繕えるが裏は隠せないものらしい
宮本武蔵」や「新・平家物語」などを世に送り、大衆小説を国民文学にまで高めた大作家は、さすがに人間通だ。

 「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たねばならない」はリンカーンだが、「顔」は「背中」にも置き換えられよう。目標にしたい後ろ姿が職場にあれば若手は育つ。子は親の顔色をうかがうが、背中は黙って見ているものだ。
 東京・下町の銭湯で半世紀、お客の背中を流してきた人が、3年前に本誌にこう話していた。
「黙って苦労を語っているような背中ってあるんだ。ごくろうさん、て声をかけたくなるよね」



自分の目で見て一番遠いところにあるもの
それは「自分の背中」
深い言い回しだなあと。
もちろん実際に見ることはそれほど難しいことではないのでしょう。
すぐ後ろにあるものですから、合わせ鏡などで。

でも、

その「自分の背中」が無意識の内に映し出しているものを 
「自分の目」は案外に見ることができない、ということでしょうか。

ところが、
他人の目にはどういうわけだか鮮やかに見えてしまうものなのでしょうね。

銭湯で背中を流してきた、というくだり・・
ふと、母たちのことを思いました。
温泉や家のお風呂など、一緒に入ることがあると背中を流してあげてきましたが、
最近では二人の母の背中がすっかり柔らかくしなびて、
ひと回りもふた回りも小さくなってしまったことにチクンと胸が痛くなります。
元気で力強く活動的だった義母でしたが、
自分を大人になるまで育ててくれた強く優しい母でしたが、
今はもうふにゃふにゃになった小さな背中を我が手に感じると、
今までの母たちの人生を思い、
自分たちにしてくれたことを思い、
有難く、申し訳ないような心境になります。

母たちは何も言わないけれど
その背中は確かに自分に話しかけてくれています。
そして、
母というひとの温かい存在を感じて、いつも甘い切なさで満たされるのです。

・・・・・

実は、『天声人語
続きがありまして


 さて、世間を眺めれば、「選挙の顔」選びに政界が騒がしい。見てくれに惑わされず、どの人、どの政党の背中が偽りないかを見極めたいものだ。
昭和の文豪の慧眼(けいがん)にあやかりながら。


ここまで引用しなければ筆者の意図が伝わらないのは重々承知です。

が、
情感のテンションがここでガクンと下がったのが正直なところ。

うんざりと言うか・・。
至極正論の締めの言葉が何ともありきたりに感じるのは、
筆者のせいでないです。

すみません。。
イヤミ言いました。


イメージ 1

実るほど
頭を垂れる
稲穂かな

稲刈りの日も間近でしょうか
いつも
いつのまにか稲が刈られていて
あらっ・・と思うんですよね~

イメージ 2

見えますか?
カエルの背中
頭隠して
ほにゃらら 隠さず(笑)



イメージ 3

もうすぐ秋ですね