すっとんきょうでゴメンナサイ

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『ミッドナイトスワン』・続

 

『ミッドナイトスワン』

前回の記事を書いた後、この作品の関連記事を目にすることがありました。

 

その中に「悲劇のトランスジェンダー像」という文字を見て、「え?」と驚いたのです。

「涙を誘う道具」とも。

 

え?この映画ってそういう映画だった?

 

あぁ…そうか

確かに主人公の凪沙さんはトランスジェンダー、だった。

そして私はたくさん泣いた。

 

そういうふうに作られた映画なのか? って…。

 

だって

観始めてすぐ凪沙さんがトランスジェンダーであることは私の頭から消えていたんですよね。

凪沙さんは凪沙という一人のひとでしかなかった。

 

ありのままに生きようとすることがこんなにも苦しい

尊厳を痛めつけられそれでも生きなければならない

そんな同じ悲しみを抱えた多くのひと達の一人。

 

その悲しみはトランスジェンダーの凪沙さんが抱える特別の悲しみではなく

誰もが抱える悲しみであり

私も抱える悲しみであり

悔しいけどそんな悲しみがこの世界に溢れている。

そのことが空しくて腹立たしくて痛くて私は泣きました。

 

私にとって『ミッドナイトスワン』はそんな映画でした。

 

 

だから

「悲劇のトランスジェンダー像」とか「涙を誘う道具」という言葉に違和感を覚えたのです。

そうだったかな…?と。

 

確かに、この作品のテーマには「トランスジェンダー」が大きく横たわっているのかもしれません。

制作者側の意図として、それを伝えたかったのかもしれない。

そう受け取った人の「悲劇のトランスジェンダー像」や「涙を誘う道具」の批評だったのでしょうか。

一つの作品でいくつもの見方があり様々な感想があるのは当然ですから、否定するつもりもありませんが

あまりにありがちな、短絡的に言い切る表現に、鋭い刃物で刺されたように胸が痛くなったのは正直なところ。

映画の作り方としてトランスジェンダーを悲劇的に涙を誘う道具として扱っていることを(多分)批判しながら

トランスジェンダーは異質であり悲劇であるという固定観念ありきで

この言葉が発せられているようにも感じて。

的外れなことを言っているのかもしれませんね。申し訳ありません。

 

 

ひとは皆同じ、とは思いません。

様々なひとがいるわけですから。

違って当たり前。

ただ、そんなひと達に上だの下だのないように

ひとの悲しみに上も下もない。

異質と区別されることや特別扱いされることもないのでしょう。

 

ひとは皆同じように悲しみを抱えている。

そのことを忘れずに

叶うなら寄り添えるひとでありたいと思います。

 

 

自分の思いが上手く伝えられません。

分かりにくいことをごちゃごちゃとスミマセン(;^ω^)

 

インタビューに答えた草彅剛さんの言葉です。

草彅さんは撮影前、トランスジェンダーの人たちに会うほか、多くの資料や映像に目を通し、準備を行ったそうです。

その結果、

「"トランスジェンダーだからこういう感じ"とかは全然なかった。(演じる際に)あまりにやろう、やろうとすると、大げさになってしまう。凪沙は特別な人じゃないから

 

「生きていれば、誰もがストレスやコンプレックスを抱えていると思う。だから、凪沙は僕自身なのかな、と思ったりしたんです。等身大の“草なぎ剛でいいな”みたいな感じで、やりました」

 

凪沙さんは特別でもなんでもない

まして「悲劇のトランスジェンダー」とか「涙を誘う道具」などではなく

凪沙という一人のひととして私の心に残っています。

 

 

※過激なことを言ったかもしれません。考え足らずなところはどうかお許しください。

 

 

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