(夫が実家に行っている期間を狙って(笑))長女が数日間帰って来ていた。末娘も後半合流。
「お世話になりました~」の言葉と共に、先ほどそれぞれの場所へ戻って行った。
やれやれと思うと同時に、明日は夫が帰って来るので、僅かな独り時間を楽しまねばと心が急く。
そして、こうしてブログも書いている。
持って生まれた気質なのか、「独り」でいることが嫌いでない。
それどころか、「独り」の時間が自分にはとても必要だと思っている。
幼少期、思春期を経て成人し、ママになってもオバサンになってもオバアサンの今も、
「独り」が嫌いでないし、「独り」の時間を愛している。
学校に通っていた頃、社会人として働いていた頃、趣味のサークルに所属していた時、
友人は少なくなかったし、皆で過ごすのは楽しかったが、
周囲と自分のベクトルが少し違うなと感じると、そっと離れた。
議論するでもなく「じゃあ私は」とさり気なく違う道を選んだ。
それぞれが自分の考えを尊重すればいいと思ったし、
自分の考えを周囲に押し付けようとも思わなかった。
逆に、もちろん納得すれば自分の考えを周囲に合わせることは容易だったが、
納得出来ないことを周囲と同調しなければならないのは自分を酷く苦しめるので、
それならいっそと、「独り」でいることを選んだ。
そんな私を「一匹狼だから」と陰で揶揄する人もいたようだが、
そんな私の「一匹狼」なところを理解し認めてくれる人たちが、
今もずっと友人でいてくれるのだと思う。
「独りぼっち」がネガティブに捉えられるのは、例えば学校で?職場で?
地域のサークル?ママさん仲間?オバサン仲間?オバアサン仲間?
それとも日本だから?外国では?
「独りぼっち」でいると、協調性に欠け、友人の一人もいない寂しい人と証明されているようで、
「独りぼっち」でいることを恐れ、
そこがたとえ自分の居場所でなかったとしても、そこにある何かに繋がろうとする。
そんなことはごく普通の人情だろうと思うし、そうする人を弱いとも思わない。
私がそう出来ないのは決して強いからではなく、
ある意味、協調性に欠けることでもあったろうから、
自分の中で悶々としたし、あんなふうに上手に人と連むことが出来たらとコンプレックスでもあった。
ところが近頃、
実は「独り」がこんなに好きなんですと、声高らかにカミングアウトする人が増えてきた気がする。
「独りぼっち」で何かイケナイことでも?と。
「独り焼き肉」「独りファミレス」「独りカラオケ」などなど。
「独り」で気ままに、思う存分。
そんな世の中の空気に後押しされ、私の「独り」好きも堂々と市民権を得た。
正直言えば、「独りぼっち」になることに自分自身承知しているとは言え、
現実は、そうなることに少なからず引け目と一抹の寂しさを感じていたのだ。
同居する家族がいても「独り」の時間が欲しい。
「独り」の時間に「独り」で楽しみたい。
例えば、何かが起こり自分だけになっても、きっと「独り」の暮らしを十分に愉しむだろうと
そんなことまで思い描いた。
自分は「独り」が好きだ、とあっけらかんと言ってみせた。
そんなふうだから、
娘たちの世話で「独り」の時間が減り、そして彼女たちが帰って行った時、
さあ、これで「独り」になれる、何をしてやろうかと、申し訳ないが心浮き立つわけで。
「独り」の時間に「独り」の楽しみ…。
だけど、今日は少し違っていた。
ホッとすると同時に胸を一筋通り抜ける寂しさ。
帰って行った娘たちの顔や声を思い出し、
賑やかに過ごした数日間が愛しく有り難くて、不意に寂しくなったのである。
「独り」が好き。「独り」になりたい。何度もそう言ってきたけど
それは紛れもなく、
自分が愛し、自分を求めてくれる、家族や友人がいてくれるからそう言えるのだと、
それを忘れてはいけないと、今さらの様に思うバカである。
有り難きを忘れ、周りへの配慮を怠り、
「独り」が好きと口走るおのれの幼稚さに、今さらの様に恥じ入るアホである。
「独り」は嫌いではないし、「独り」の時間を好んでいるが、
自分の周りの愛する人たちを失い、本当に「独り」になった時、
いったい自分は同じ様に感じるのだろうかと、改めて考えたことだった。
小豆島 中山千枚田の彼岸花(2009年9月)亡母と一緒に見ました
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